争いをやめられなかった二人の高官
この話は、パーリ聖典の二集(ドゥカニパータ)に収められた本生第165話として、祇園精舎で語られた。コーサラ国王に仕える二人の高官は絶えず互いを侮辱し合い、王も、友人も、親族も二人を和解させることができなかった。仏陀は、両者がともに初果へ至る準備ができていることを見て、托鉢の折にそれぞれの元を訪れ、慈悲(メッター)の利益を一人ずつに教えられた。
法堂における和解
仏陀が諦(四聖諦)を説示されると、二人はともに初果の境地を得た。二人は互いに過ちを告白し、仏陀の御前で共に食事をした。比丘たちは法堂でのこの和解に驚嘆した。仏陀は、この二人を過去世においても和解させたことがあると告げられた。
ヒマラヤの仙人
ブラフマダッタ王がベナレス(バーラーナシー)で統治していたとき、菩薩はバラモンの家に生まれ、在家の生活を捨ててヒマラヤで苦行者となった。彼は野生の根や果実を食べて暮らした。その歩道の端には、蟻塚に住む一匹のマングースと、空洞の木に住む一匹の蛇がおり、二匹は絶えず争っていた。
平和の教え
二匹の絶えざる争いを見た菩薩は、争いがもたらす苦しみと平和の価値を、蛇とマングースに教えた。二匹に争いをやめ、調和のうちに生きるよう勧めた。二匹はその教えを受け入れ、敵意は終わり、蛇はもはやマングースを脅かさなくなった。
歯をむき出して眠る者
しばらく後、蛇が外出している間に、マングースは歩道の端で、蟻塚から頭を出し、口を開け、荒い息をしながら眠っていた。仙人はそれを見て、何を恐れているのかと問うた。その問いは一つの偈の形をとっていた。卵から生まれた古くからの敵である蛇と休戦を結んだというのに、マングースはなぜ歯をむき出しにして眠り、いかなる恐れがその身に降りかかったのか、と。
マングースの答え
マングースは自らの偈で答えた。敵とは取り決めを結ぶべきである。しかし、友にさえ完全な信頼を置いてはならない。真の原因のないところに生じた恐れは、人の幸福の根そのものを断ち切りうる。友の過ちも、一度理解されれば、その破滅へ導きうる。マングースの警戒は憎しみではなかった。それは、困難を経て慎重さを学んだ生き物の習性であった。
菩薩の安心の言葉
菩薩はマングースに、恐れてはならないと告げた。彼は蛇が危害を加えないよう説得しており、だからマングースは蛇への不信を捨ててよいのだと。菩薩はマングースの用心を咎めなかった。すでに果たした約束をもって、それに答えたのである。その安心のうちに、マングースは長く抱えてきた恐れを下ろすことができた。
仙人の生涯の終わり
その後、菩薩は四無量心(ブラフマヴィハーラ)、すなわち慈・悲・喜・捨を修めた。梵天界へと心を向け、そこに安住した。物語のほかの生き物たちも、その行いに従って、それぞれの未来の行き先へと赴いた。
前世の識別
仏陀は二つの物語を結びつけて、この説話を締めくくられた。和解した二人の高官は、かつてのあの時代の蛇とマングースであり、菩薩は両者の間に平和をもたらした仙人であった。
この物語が読む者に与えるもの
二つの偈が、この物語に均衡を与えている。第一の偈は、休戦が取り除くはずであった恐れの背後に何があるのかを、慈しみをもって問う。第二の偈は、敵と友についての平明な世俗の慎重さで答える。この本生は、マングースに、その用心が欠点であるとは告げない。まず平和を説き、その後は自ら結んだ平和の後ろに立ち続けた師の姿を示している。長く続く争いの中にある人にとっての教えは、平和を穏やかに説くこと、そして相手の側がなお恐れている間は、その平和の後ろに立ち続けることである。同じ型は、枠物語にも現れている。仏陀は二人の高官のもとへ別々に赴き、慈悲を教え、そのうえで初めて二人は互いに向き合い、過ちを告白した。二つの物語のいずれにおいても、和解は、一方の側からもう一方の側へと順に赴く忍耐強い師から始まる。そしてそれが持続するのは、師が後になっても残り、争いが残した恐れに答え続けるからである。
ご存知でしたか?
ナクラ・ジャータカ(第165話、二集)は、コーサラ国王に仕える二人の争う高官を和解させるために、祇園精舎で説かれた。
仙人はまず蛇とマングースに争いの苦しみと平和の価値を教え、その結果、両者の敵意は終わった。
歯をむき出して眠っていたマングースは偈をもって答える。敵とは取り決めを結ぶべきであり、友にも完全な信頼を置くべきではない。根拠のない恐れは、人の根を断ち切る。
菩薩はマングースを叱責しない。蛇が危害を加えないよう説得したことを告げて、マングースを安心させる。
本生の結びにおいて、和解した二人の高官は蛇とマングースであり、菩薩はその二者の間に平和をもたらした仙人であった。
