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Embroidered artwork for カーランディヤ本生譚:大地を平らにしようとした弟子: Embroidered Buddha seated in meditation on a pink lotus, with a golden dharma wheel and a white stupa in the mountains

カーランディヤ本生譚:大地を平らにしようとした弟子

弟子カーランディヤは、説法によって誰もが納得するわけではないことを師に示すため、大地を平らにすると言って洞窟に石を投げ入れる。

ジャータカ物語仏陀般若(智慧)

法の将軍は歩みを止めない

仏陀はジェータヴァナにおいてこの物語を語られた。その機縁は、「法の将軍」として比丘たちの間で知られた尊者サーリプッタにあった。サーリプッタは、旅の途上で出会う人々すべてに、たとえ猟師や漁師であっても、自らの生業を捨てる真の意志をもたない人々にさえ、道徳の教えを説く習慣があった。人々は礼儀正しく耳を傾け、表向きは敬意を示したが、実際に教えに従うことは決してなかった。ほかの比丘たちはこの様子に気づき、法(仏陀の教え)を真に受け入れる用意のある者にだけ教えを説くように、穏やかに勧めた。サーリプッタはその助言を聞いたが、誰にも教えを与えないことが正しいのかどうか確信がもてず、心を悩ませたままであった。

同じ習慣をもつタッカシラーの師

この問題を解くため、仏陀は、ブラフマダッタ王の治世にベナレスで起こったある時のことを語られた。そのとき菩薩は、タッカシラーにおいて世界に名高い師の筆頭の弟子であった。この師は、サーリプッタを悩ませたのとまったく同じ習慣をもっていた。道で出会った者には誰にでも、教えを求められたかどうかや、変わる意志を示したかどうかにかかわらず、戒律を説いたのである。彼が教えを説いた村人たちは、どれほど繰り返し説かれても、勧められた戒律を守ることはなかった。彼自身の弟子たちもこの様子に気づき、耳を貸さない人々に息を無駄に使うのはやめるようにと頼んだ。しかし師は、以前とまったく同じように続けた。

バラモンの菓子を集めに遣わされる

ある日、村人たちが、尊ばれる師に対する慣わしとして供えるバラモンの菓子を受け取りに来てほしいと、この師を招いた。師は別の用事で手がふさがっていたため、代わりに筆頭の弟子であるカーランディヤを遣わした。彼とともに、師のもとで学ぶ五百人の若い学生たちも行くことになった。一行は村へ赴き、師に代わって供物を受け取ったのち、森の道に沿ってタッカシラーへ引き返した。

帰路で石を投げる奇妙な遊び

帰り道、カーランディヤは、師を直接に軽んじることなく、師自身の振る舞いの欠点を気づかせる方法を考えていた。道のそばには、岩に穿たれた大きな自然の洞窟があった。カーランディヤはそのそばで足を止め、大きな石を次々と拾い上げ、洞窟の入り口へ何度も何度も投げ込み始めた。まるで重大な仕事に没頭しているかのようであった。ほかの弟子たちはその光景に戸惑ったが、何も言わず、年長者が次に何をするのかを見守った。

「なぜその洞窟に石を投げるのか」

のちに、師はこの奇妙な振る舞いのことを聞いて自ら見に来ると、なぜ森の中でただ一人、石を一つまた一つと洞窟に投げ込んでいるのかと、カーランディヤに率直に尋ねた。最も有能な弟子が没頭するには、奇妙で無益な仕事に思われた。師は、カーランディヤが自分は何を成し遂げようとしているのかを理解したかったのである。

「大地全体を平らにするつもりだ」

カーランディヤは、大地の窪みや低い場所をすべて埋め、大地全体が人の掌のように滑らかで平らになるまで、その仕事を続けるつもりだと答えた。洞窟一つずつ、窪み一つずつ、この凸凹の世界が完全に均されるまで、着実に取り組むつもりだと語った。彼は冗談ではなく、真剣で価値ある志として語っていた。

「人間は大地を平らにできず、一つの洞窟も埋められない」

師は、いかなる人間であっても大地全体を平らにする力はなく、カーランディヤがどれほど長く続けようとも、石を投げ込んでこの洞窟一つさえ埋めることはできないのだと、率直に告げた。その仕事は、人間の力にも人間の一生にも、ただ手に余るのだと。師はためらうことなくそう言い、弟子がその明白な真理を認めることを期待した。

「ならば、すべての人が同じように考えることをなぜ期待するのか」

そこでカーランディヤは、師自身の言葉を師に返した。たとえ強く決意した人であっても、大地を均したり、一つの洞窟を埋めたりする力は持たない。同じように、教えを聞いたすべての人がそれを受け入れ、それに従って生きることを期待するのは、道理に合わないのだと彼は言った。異なる意見をもつ人や、変わることを拒む人は、ただ凸凹で頑固な大地そのものがするように振る舞っているにすぎない。すなわち、誰も完成させることのできない平らにすることに抵抗しているのだと。誰もが一致することを期待するのは、言葉一つで地面が自ら平らになることを期待するのと同じくらい非現実的なのだと。

師が教えを受け入れる

これを聞いて、師は、賢い弟子がそれまで自分に示していたことを即座に理解した。大地は完全に平らにされることは決してないと師は認め、まったく同じように、どれほど辛抱強く、どれほど熱心に教えを説いたとしても、すべての人を完全な一致へ導くことはできないのだと認めた。師はカーランディヤの智慧を讃え、その日から、教えを求める気配のない人々に道徳の教えを押しつける習慣を和らげた。

仏陀による同定

仏陀がこの物語をサーリプッタと集まった比丘たちに語り終えると、登場人物を率直に明かされた。タッカシラーのバラモンの師は、その前の生においてサーリプッタ自身であり、洞窟の譬えを通じて師を導いた賢い弟子カーランディヤは、菩薩であった仏陀ご自身であったと。サーリプッタは、自らの長く続いてきた習慣が、生を越えて一度すでに見抜かれ、穏やかに正されていたのだと聞き、その教えを心に刻んだ。

論争を超えて残る教え

カーランディヤ・ジャータカは、パーリ聖典の小部に含まれるジャータカ集における正典の第356話であり、パーリ聖典協会の標準版の第三巻に見いだされる。この物語は、慧(パンニャー)、すなわち識別の智慧を完成することという、より広い仏教の教えに属する。その教えは、他者を穏やかに正すことと同じくらい、状況を賢明に読み解くことに関わるからである。教えを説くことが無益だというのではない。石を投げても大地を平らにする仕事を終えられないように、どれほど説法を重ねても、すべての人を一致へと強いることはできないというのである。この物語が示すところによれば、賢い師は、決して平らになることのない地面に努力を使い果たすのではなく、努力が実際に根を下ろしうる場所へと、それを向けるのである。

ご存知でしたか?

カーランディヤ本生譚は、パーリ聖典『小部』の本生経典に収められた第356話の正典説話である。

仏陀がこの本生をジェータヴァナ精舍で説いたのは、舎利弗が猟師や漁師に説法していたが、彼らは聞きながらも決して改めなかったためである。

カーランディヤの実際の行いは、道端の岩を槌で砕くことではなく、森の洞窟に石を投げ入れて大地全体を平らにすると宣言したことである。

師と弟子は詩節の形で見解を交わし、師は大地を完全に平らにすることは決してできないと認める。

仏陀は、過去世の師を舎利弗、弟子カーランディヤを自らと明かされた。

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