仏陀に捧げられた米糠のケーキをめぐる枠物語
パーリ聖典の第109本生は、釈尊がサーヴァッティの一人の貧しい男について説かれた物語です。共同体が力を合わせて釈尊と比丘たちに食事を供えたとき、この男には差し出せるものが米糠のケーキ一つしかありませんでした。彼はそれを、ほかに何も添えることなく、釈尊ご自身の托鉢の鉢にじかに置きました。その布施は集まった市民の目に大きな功徳と映り、富裕な施主たちが、その供養の加護にあずかろうとして次々と彼に贈り物を届けるようになりました。彼の財産は九千万(一クローレは一千万)にまで増え、王はその日の夕べのうちに彼を財務官に任命しました。これが単なる奇跡ではないことを示すため、釈尊は、同じような運命をたどった、ある水運びの質素なケーキの昔の物語を思い起こされました。
富める者に有利だった祭礼
バーラーナシーでは、市民が森を守る精霊を敬う毎年の祭礼を催していました。都の富裕な商人や貴族たちは、城壁の外に立つ大きなベンガルボダイジュやサーラ樹を飾るために、乳粥、香りのよい花環、蜜菓子を携えてきました。
ただ籾殻だけを持つ水運び
都の労働者のなかに、一つの土の壺、粗末な布、そして捨てられた籾殻のわずかな量のほかには何も持たない貧しい水運びがいました。それでも彼は、立派な供物を捧げる富裕な市民と同じ祭礼への敬虔さを抱いていました。彼は籾殻を搗き、粗く乾いたケーキにこね上げ、富める者たちが好むような大きなベンガルボダイジュよりもはるかに質素な、一本のヒマ(トウゴマ)の木へと運んでいきました。
恥じらいのために手放されかけた供物
木に近づいた水運びは、近くの祠が料理と芳しい花々で溢れているのを目にし、自分の崩れかけた灰色の籾殻のケーキを見下ろすと、恥ずかしさに襲われました。王や銀行家たちの供宴を受けることに慣れた精霊が、これほど貧しい供物には必ず侮辱を感じるに違いないと彼は考えました。不快にさせるかもしれないものを捧げる危険を冒すよりはと、彼はそのケーキを藪に投げ捨てようと振り向きました。
時を逃さず彼を止めた樹の精霊
まさにその瞬間、樹の精霊である菩薩が、光の輝きとともに幹から姿を現し、男に立ち止まるよう呼びかけ、なぜ供物を差し控えるのかと問いました。水運びは涙を流し、自分の貧しさと、これほど質素な供物が恥や神々の怒りを招くだけであろうという恐れを打ち明けました。
供物の真の価値についての教え
菩薩は、供物は値段でも稀少さでもなく、それを捧げる心の誠実さによって量られると答えました。傲慢さをもって与えられた王国は灰にも劣る。誠実な信仰をもって捧げられた籾殻のケーキのひとかけらは、真の布施を理解する者にとって、どんな富める施主の供える最上の供物とも同じほどに甘い、と。
樹の精霊に受け入れられたケーキ
男は戻ってきて供物を捧げました。樹の精霊は、その粗いケーキを受け入れ、その風味を味わい、水運びの恥じらいが、誠実な布施とそれを受けるべき者との間に立つことを許しませんでした。菩薩の偈頌が述べるとおり、神の食は人の分に応じたものです。人の食べるものが、そのまま神の食べるものでもあるのです。
布施の誠実さに見合った報い
男の揺るがぬ信心を讃えるため、菩薩は樹の周囲に輪を描くように、首と首を接して埋められた宝の壺を明らかにし、この財宝をどのように王の前に差し出せばよいかを正確に教えました。王は、樹の精霊が水運びのために行った証言に心を動かされ、かつては藪へ投げ捨てられかけた供物の力によって、彼を王室の財務官に任命しました。
米糠のケーキへと受け継がれた教え
釈尊は、サーヴァッティの貧しい男に話を戻して物語を締めくくられました。誠実さのほかには何も勧めるもののない供物として捧げられた彼自身の米糠のケーキが、まさに一つの財宝と、自らの財務官の地位を生み出したばかりでした。釈尊は、水運びの古い籾殻のケーキと現代の米糠のケーキが、まったく同じ真理によって報われたことを会衆に示されました。どんな供物をも崇高にするのは、供物の華やかさではなく、布施する者の心の清らかさなのです。その真理は、ジェータヴァナにおいて一つの托鉢の鉢でふたたび証されるはるか以前に、古い森の物語のなかで一度すでに証されていたのです。
ご存知でしたか?
布施波羅蜜(寛大)と捧げる心の純粋性を説く第109話の本生譚。
果報の大きさは供物の多寡ではなく意図(チェータナー)によって決まることを示す。
見栄と傲慢に満ちた富者の豪奢な供養と、貧者の真心の施しを対比。
ボサツである樹神は、分け隔てのない大慈悲をもって粗末な施しを受け入れた。
いかに小さな善行であっても、清らかな誠意があれば無量の福徳を生むと教える。
