スヴァンナサーマ・ジャータカ:孝行な息子
肌が黄金色の若者が盲目の両親に身を捧げるが、猟師の矢に倒れて命を落とす。しかし真実の誓い(サッチャキリヤー)によって、彼の命と両親の視力がともに取り戻される。
母を養った一人の僧
ジェータヴァナで、仏陀は、十二年にわたる森での瞑想がうまくいかなかったのち、自分の両親が貧困と窮乏に陥っていることを知った一人の比丘のことを聞かれた。在家の人として両親を養うために還俗するのではなく、その比丘は出家者にとどまり、托鉢で受けた食べ物を両親が食べられるようにと分け与えた。ほかの比丘たちが、僧団への布施を在家の人々に回していると彼を非難したため、その件は仏陀のもとへ持ち込まれた。仏陀はその比丘の献身を讃え、『パーリ聖典』のジャータカ第540話、スヴァンナサーマ本生譚を語られた。それは、親を養うことそれ自体が、尊ぶに値する道であることを示すためであった。
森の中の二人の苦行者
二人の村長は、いずれも猟師を生業としていたが、以前から、子どもたちを互いに結婚させようと約束していた。息子のドゥクーラカと娘のパリカーは、取り決めどおりに結ばれたが、二人はどちらも前世において、清らかな梵天界(仏教の宇宙論における高い天界)から来ていた。互いの合意によって、二人は夫婦としてではなく、独身の苦行者として暮らし、森の庵へともに退いた。帝釈天は、二人がやがてともに盲目となり、世話をする者を必要とすることを見越して、もっとも穏やかな方法で子をもうけるよう二人を説き伏せた。やがて二人の間に息子が生まれ、生まれたときから肌が黄金色であったので、二人はサーマと名づけた。黄金色の者、スヴァンナサーマである。
蛇の毒によって盲目となる
サーマが十六歳のとき、帝釈天が見越していたとおりに、災いが起こった。突然の驟雨を避けていた両親は、知らぬうちに蟻塚の上に立っており、その下を通り過ぎた蛇が毒を両眼に吹きかけたため、二人とも盲目となった。その日から、サーマは両親の眼となり、手となり、足となった。水を汲み、果実を集め、日々の散歩では縄を使って二人を導き、庵の火を守った。その献身はあまりにも徹底していたので、森の野生の鹿でさえ、サーマに恐れを感じず、彼のそばで共に水を飲んだ。
好奇心に満ちた王の矢
ある日、サーマが森の池のほとりにひざまずいて水瓶に水を汲んでいると、いつものように、人になれた恐れを知らぬ鹿たちに囲まれていた。そのとき、バーラーナシーのピリヤッカ王が近くで狩りをしていた。王は、その黄金色の肌をもつ若者を見つけ、恐れを知らぬ獣たちのなかにいる超自然の存在だと思い違えて、どのような生き物であるかを確かめようと矢を放った。矢はサーマに当たり、毒が回って彼は倒れた。死に瀕しても、彼は怒りの言葉を一言も発さず、ただ誰が、なぜ自分を射たのかを尋ねた。そして、自らの死よりも、王がこれから味わうであろう後悔を哀れんだ。何より彼の深い悲しみは、自分が後に残して無力にしてしまう両親のことであったからである。
王の告白と真実の誓い
したことに恐れおののいたピリヤッカ王は、その知らせを自ら盲目の両親のもとへ運び、息子の遺体のもとへ連れて行った。そこで二人は泣き、サーマの生涯にわたる献身の絶対的な誠実さと、息子への限りない愛を、現実そのものを変えるほど強い力として呼び起こしながら、厳粛な真実の誓いを立てた。二人が語るとき、かつて前世でサーマの母であった森の女神が、彼のためにも自らの真実の誓いを加えた。これらの真実の宣言が合わさった力は、サーマの身体から毒を引き抜き、彼はまるで眠りから覚めたかのように蘇った。それと同時に、両親の長い盲目は消え、その視力は完全に回復した。
変えられた王の治世
王は、このような献身が報われる光景を目の当たりにして変えられ、征服を捨て、残りの治世のあいだ、正法の王たる十の徳を受け入れた。一方、サーマは、両親の残りの日々を、森の中で世話し続けた。
仏陀による前世の特定
仏陀は、献身的な仲間を非難した比丘たちのために、物語の登場人物を明かして締めくくられた。ご自身は、盲目の両親を不平なく世話した黄金の若者スヴァンナサーマであった、と言われた。父ドゥクーラカはマハーカッサパであり、母パリカーは比丘尼バッダカピラーニーであった。ピリヤッカ王はアーナンダであり、自らの真実の誓いを加えた森の女神はウッパラヴァンナーであり、そしてこの一連の出来事をそもそも動かした帝釈天は、アヌルッダであった。
比丘の小さな行いが、大きな物語によって守られた理由
非難された比丘が実際に行ったことは、つつましいものであった。年老いた両親が飢えないように、自分が食べられたはずの食べ物を分け与えたのである。このジャータカは、この小さく静かな配慮の行いに、驚くべき規模の物語で答える。毒、死、神々の介入、そして視力の回復である。両方の行いは、同じ根から生じている。すなわち、親の必要を満たされないままにしておかないという意志である。このジャータカの構成は、この根が、分け合われた托鉢の食べ物を生むにせよ、一人の王が目撃する奇跡を生むにせよ、同じ敬意に値することを論じている。
毒をも解くに足る真実
このジャータカの中心にある真実の誓いは、通常の祈りや請願とは異なる論理で働く。それは慈悲を求めるのではなく、一つの事実を宣言する。すなわち、サーマの献身と両親の愛は真に、完全に誠実であったという事実である。そして、その誠実さそのものを、毒と盲目の両方を逆転させうる力として扱う。このジャータカは、どれほど激しい悲嘆であっても、それだけでは同じことを成し遂げられたとは決して示唆しない。宣言される献身の誠実さこそが、目立たぬ日々の長年にわたる世話によって試されてきたものであり、それが宣言に力を与えるのである。この物語が示すのは、静かで一貫した忠実さのうちに費やされた一生は、死をさえ曲げうるほど濃密な真実を残すということである。
ご存知でしたか?
スヴァンナサーマはジャータカ第540話で、東南アジアの上座部仏教で最も崇敬される十大本生譚の一つである。
この物語は説法や出離ではなく、特に孝行を通じて広がる慈しみ(メッター)を示している。
「真実の誓い」(サッチャキリヤー)——奇跡を起こすために用いられる絶対的な真実の厳粛な宣言——は本生譚文学で繰り返し現れる手法であり、この物語では連続して二度用いられる。
サーマの鹿への無害さは、鹿が彼に全く恐れを抱かないほど完全であり、無意識の動物本能にまで及ぶ不殺生(アヒンサー)の模範としてしばしば引用される。
ミャンマーでは、この物語は広くサーマ・ジャータカとして知られ、孝行を描く寺院壁画の一般的な題材である。
