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Embroidered artwork for マニクンダラ本生:宝玉の耳飾りと寛容な王: Embroidered Buddha seated in meditation on a pink lotus, with a golden dharma wheel and a white stupa in the mountains

マニクンダラ本生:宝玉の耳飾りと寛容な王

ベナレスの王である菩薩は、コーサラ国の王に征服されて囚われの身となるが、瞑想のうちに空中に浮かび、無常を説き続ける。やがて征服者は、名誉をもって王国を返還する。

無実の罪で疑われた廷臣

ブッダは、パーリ聖典に伝えられるパンチャニパータのマニクンダラ品の本生第三百五十一話を、ジェータヴァナ(祇園精舎)でこの物語として語った。それはコーサラ国王の一人の廷臣についての話である。彼は真の有用さによって頭角を現し、宮廷の同僚たちの嫉妬を招いていた。嫉妬深い廷臣たちは、王宮の後宮における不品行という中傷的な告発をでっち上げた。王は調べることもなく、無実の男を鎖につなぎ投獄させた。廷臣は絶望することなく、その投獄を精神的な向上の機会とした。やがて王は真実を知り、彼を解放して、以前にも増して高く敬った。ブッダは前世の物語を語り、同じ型、すなわち不当な苦しみを恨みではなく内なる安定をもって受け止めるという型が、はるかに大きな舞台で一度演じられたことを示された。

征服されたベナレスの王

その前世において、菩薩はベナレスの王として、貪欲や残酷さなく正義をもって統治していた。コーサラ国王の宮廷にいた一人の悪臣は、自らの利益を求めて、主君に平和なベナレス王国への侵攻を勧めた。コーサラ王はその誘いに乗り、軍勢を動員してベナレスを征服した。菩薩は、民の命を奪いかねない抵抗を一切示すことなく、捕らえられて牢に投げ込まれた。

空中へと昇った囚人

菩薩は、獄中で絶望に屈することなく、深い禅定に入った。その集中の力によって、大地から浮かび上がり、完全に静かなまま空中に結跏趺坐した。この並外れた光景を知ったコーサラ王は、自ら見に来た。彼は、囚われた王の落ち着いた姿を見つめるだけで、自らの身体の内に焼けつくような動揺が生じることに気づいた。まるで自分の罪と、捕らわれた者の安らぎとの対比によって、目に見えない火が点されたかのようであった。

宝玉の耳飾り、馬と戦車

菩薩に直接語りかけようとして、コーサラ王は一つの詩句を唱えた。それは征服された王が失ったとされるものすべてを数え上げるものであった。宝玉の耳飾り、馬と戦車、さらには子と愛する妻までも奪われたことが述べられている。しかし、菩薩は、そのいずれにも触れられていないかのように空中に座り続けた。この詩句から本生はその名を取る。マニクンダラ、すなわち宝玉の耳飾りである。それは王の喪失の目録における一つの品に過ぎず、菩薩自身の教えがやがて、それを取るに足らないものとするのである。

無常による教え

これに答えて、菩薩はコーサラ王に教えた。物事の真実の性質を理解する者は、すでに真実と知られていたことを確認するだけの喪失によって揺らぐことはない、と。あらゆる所有物、関係、そして境遇は、変化と最終的な喪失のもとにある。そのような苦しみは、喪失が訪れる前に無常と和解を遂げた心の前では、その力を失う。危機の瞬間になってようやく苦しみを見いだすのではないのだ、と菩薩は説明した。

より大きな名誉をもって回復された王国

この教えの深さに打たれ、また大臣の野心が引き起こした不当な戦争を恥じて、コーサラ王は菩薩の鎖を解き、ベナレスの王国を余すところなく返還した。王は平和のうちに去っていった。正しい判断という教えを携えて。本生の枠物語は、後の生涯において、嫉妬深い廷臣たちに惑わされた王として、なおもこれを学び直す必要があったことを示している。

ブッダによる同定

教えを結ぶにあたり、ブッダは両方の生涯の登場人物を明かした。アーナンダはコーサラ王であった。その征服者は、いかなる武器よりも自らの罪に焼かれた者であった。そしてブッダ自身がベナレスの王であった。鎖につながれたその落ち着きは、勝利した王に、その王座だけでは決して教えられなかったことを教えたのである。

焼かれたのは勝者であり、囚人ではない

本生の中心にある逆転は、よく味わうに値する。牢の外に立ち、あらゆる世俗の利点を手にした自由なコーサラこそが、焼けつくような動揺に苦しむのであり、一方、王国、家族、自由を奪われた菩薩は、乱れのない静けさの中に座している。仏教の註釈はこの逆転を、直接的な道徳的言明よりも鋭く、この物語の真の教えとして読む。本生が示唆するのは、勝利と所有は罪悪感と不安という内なる火から守ってくれるものではなく、一方で、境遇ではなく理解を通じて築かれた真の平静は、鎖につながれた囚人にさえ開かれているということである。コーサラの身体は、その征服が彼から隠せなかったものを露わにする。すなわち、力によって王国を奪ったことは、彼自身の王座では決して取り戻せないものを彼に失わせたのである。

枠物語が示す、いまだ学ばれていない教訓

本生の現在の枠物語は、嫉妬による中傷以外に何の根拠もなく、再び調べられることなく罪に定められる廷臣を示している。これは、かつて直接この教訓を授かった王でさえ、その後のすべての決断にそれを必ず持ち越すわけではないことを示唆している。仏教の伝統は、この繰り返しを教えの欠陥としてではなく、苦労して得られた洞察が、それを生み出した状況が去ったあとにどれほど容易に薄れてしまうかについての、正直な認めとして読む。早まった判断に続いて遅すぎる名誉回復がなされるという同じ型は、ついに深く身につくまでに、しばしば繰り返されなければならないのである。

ご存知でしたか?

マニクンダラ本生は第三百五十一話にあたり、パンチャニパータ(第五集)のマニクンダラ品に収められる。祇園精舎で、後宮の不品行を濡れ衣で着せられ不当に投獄された一人の廷臣について語られた。

菩薩はベナレスの王であったが、悪臣が自らの利益のために侵攻を勧めたことにより、コーサラ国の王に征服され囚われた。

投獄された菩薩は禅定に入り、結跏趺坐の姿で空中に浮かんだ。その光景を見たコーサラ王は、内なる焼けつくような動揺に襲われた。

本生の名は、菩薩が失ったものを数え上げるコーサラ王の詩句に由来する。それは、マニクンダラ(宝玉の耳飾り)、馬と戦車、子と妻であった。無常についての菩薩の教えによれば、それらの喪失は取るに足らないものとなる。

恥じ入ったコーサラ王は、以前にも増して大きな名誉をもってベナレスを菩薩に返還した。ブッダは、アーナンダがコーサラ王であり、自らがベナレスの王であったと明かした。

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