同じ兆しを読み誤った比丘
世尊はジェータヴァナ精舎において、革の上衣をまとい、「革衣のカンマサタカ」として知られていた舎衛城の一人の比丘について、この話をお説きになった。托鉢に出た比丘は、雄羊たちが闘うように仕向けられている場所にたどり着いた。一頭の雄羊が突進するかのように身を引いたとき、比丘はそれを敬意のしるしと受け取り、その場に立ち続けた。雄羊は突進して彼の腿を打ち、彼を倒した。比丘はその一撃によって命を落とした。その知らせは僧団に広まり、比丘たちは法堂でそのことを語り合った。仏陀は、この比丘が前世においても、まさに同じ過ちを犯していたことを説かれた。パーリ聖典の第324番の本生が、その古い物語を伝えている。
革の衣をまとった聖者
ブラフマダッタ王がヴァーラーナシーを治めていた時代、菩薩は賢明な商人であり、危険が降りかかる前にそれを見抜くことに長けていた。そのころ、革の衣をまとった一人の遊行の修行者、後の伝承におけるカンマサタカと同じ人物が、市中を托鉢してまわっていた。その人物は、自らの修行者としての佇まいが、彼を目にするすべての人から敬意を集めていると信じて満足していた。
足場を得るために後ずさる雄羊
修行者が托鉢して歩いていると、一頭の雄羊に出くわした。革の衣をまとった人影が近づくのを見て、雄羊は数歩後ずさった。それは、まさに突進の勢いを得るために雄羊がとる動きであった。
与えられていない敬意を想像した聖性
動物が実際に何をしているのかに気づかず、修行者はその後退を礼拝と受け取った。最初の詩句で彼は、雄羊を正直な生き物、獣の中で最も名高いものとして讃え、学識あるバラモンの前に頭を垂れるものだと述べた。そして、そのものと思われる敬意を受けようと、そこに立って待ち続けた。
差し出された警告と退けられた言葉
倉の中に座っていた菩薩は、今まさに起ころうとしていることを見て取り、自らの詩句によって警告の声をあげた。雄羊は礼拝しているのではなく、攻撃の勢いを集めるために身を引いているのだ、だから修行者はそれを信じてはならないと。しかし修行者は、その警告に耳を貸さなかった。
問いに明白な答えを与えた突進
雄羊は前へ躍り出て、彼を打ち倒した。脚は折れ、托鉢の鉢はひっくり返った。塵の中で修行者は第四の詩句で嘆き、ふさわしくない者を敬うことは、まさに今彼が受けている運命をもたらすのであり、自らの愚かな自信がこの死をもたらしたのだと述べた。そう語り終えると、彼はその場で息絶えた。
警告に耳を貸さなかった愚者
この物語には、救済もなければ心の転換もない。商人の警告は明白であったのに退けられ、その拒絶が修行者の命を奪った。倒れた男の折れた脚と散らばった鉢について語られる詩句は、彼が命を奪われる前に救いの手が差し伸べられるべきであったと説く。助言が最も価値を持つのは、一撃が振り下ろされる前であって、その後ではないということを思い起こさせるのである。
体験から仏陀が見て取った読み誤り
仏陀がこの物語を思い起こすことを選ばれたのには、その反復そのものに鋭い意味がある。舎衛城の比丘は、同じ種類の革の衣をまとい、同じ過ちを犯していた。動物が後ずさることを敬意のしるしと取り違え、やはり雄羊によって打ち倒されたのである。このことは、これが特別な過失ではなく、自らの立場に確信を持つすべての者にとって、ありふれた誘惑であることを示している。
耳を傾けるのに費用がかからなかった警告
商人の警告が修行者に求めたものは、ほとんど何もなかった。ただ、雄羊の動きについての自分の心地よい読み取りを疑い、脇に退くことだけである。その高慢の真の代償は、自分が敬われているという確信であった。その確信は、雄羊がもともと動こうとしていたとおりに動くまで保たれたのである。
仏陀による正体の開示
ジェータヴァナにおける語りを締めくくるにあたり、仏陀は集まった比丘たちのために、その生の正体を明かされた。過去の革衣の修行者と、現在の革衣の比丘は同じ人物であり、その人物は最近、同じ仕方で命を落としたのだと。そして、むなしく彼に警告した賢明な商人こそが、仏陀ご自身であったと。
ご存知でしたか?
第324番の本生であり、第四集(カットゥカ・ニパータ)に収められた、鋭い風刺の寓話である。自己陶酔と虚偽の安心感を戒めている。
修行者は、雄羊が突進の前に見せる後退の動きを、敬意ある礼拝と取り違えた。本生は、この読み誤りこそが物語の核心であることを示している。
過去の修行者も現在の比丘も、革をまとっており、雄羊によって打ち倒されたと描かれている。
商人の詩句は、雄羊が攻撃の勢いを得るために後ずさっているだけだと警告するが、修行者はそれに耳を貸さない。
仏陀は、愚かな修行者を僧団の中の高慢で頑迷な比丘として、そして慧眼をもつ商人をご自身として明かされた。
