苦行をめぐる問い
放浪の修行者たちが棘の寝床に身を横たえ、そのほかの厳しい苦行によって自らを苛むのを見た一部の比丘たちは、そうした修行に本当に精神的な益があるのかと仏陀にたずねた。仏陀は、それには何の益もないこと、そしてこの一件全体が、かつて一羽のうさぎが耳にした音とまったく同じであることを、はっきりと告げられた。その意味を示すために、仏陀は次の物語を語られた。
山の上の獅子王
はるか昔、ブラフマダッタ王がヴァーラーナシーを統治していた時代、菩薩はヒマラヤの高峰にある涼しい洞窟に住む獅子として生まれた。鋭い判断力を備え、眼下の森に住むすべての生き物に対して揺るぎない慈しみを抱いていた。
一羽のうさぎの取りとめのない思い
同じ森で、ヤシの茂みのそばに立つ、実の固く重いベルの木の下に、臆病なうさぎが一羽、ある午後に休んでいた。ふと、もしこの固い大地が裂けて足もとから崩れ落ちたら、自分はどうなるのだろうという不安がよぎった。ちょうどそのとき、熟したベルの実が枝から離れ、うさぎのすぐ後ろにある乾いたヤシの葉の上へ、ドスンという大きな音を立てて落ちた。
噂の始まり
振り返って確かめることもなく、大地そのものが崩れつつあると思い込んだうさぎは、世界の終わりだと叫びながら逃げ出した。その姿を見た別のうさぎが理由をたずねると、返ってきたのは「命が惜しければ逃げろ、大地が崩れているぞ」という言葉だけだった。それでもそのうさぎは、後に続いて走り出した。恐慌はうさぎからうさぎへと伝わり、森のうさぎがすべて逃げ惑うまでになった。さらに、鹿、猪、水牛、ヘラジカ、野牛へと種を越えて広がり、ついには犀、虎、象までもが、ひとつの奔走する群れに飲み込まれた。どの動物も、目の前を行く動物の言葉だけを頼りに走っていたのであり、誰一人として自分の目で何かを見たり、自分の耳で何かを聞いたりした者はいなかった。
話の出どころをたずねた獅子
高い岩の上から、菩薩は舞い上がる砂塵を見、群れの轟音を聞いた。そして、大地がそのように崩れることなどあり得ないと即座に悟った。群れがこのままでは崖から海へと一直線に落ちてしまうと知った菩薩は、駆け下りて群れの行く手に立ちはだかり、三度にわたって大きな獅子吼を放った。その声によって、群れ全体がその場で足を止めた。
恐怖の源をさかのぼる
なぜ逃げているのかとたずねると、象は虎から大地が崩れると聞いたと答えた。虎は犀を指さし、犀は野牛を指さした。こうして連鎖は水牛、ヘラジカ、猪、鹿へとさかのぼっていき、ついに最初のうさぎにたどり着いた。自分の耳で音を聞いたのは、そのうさぎただ一羽であった。やさしく、大地が本当に裂けるのを見たのかとたずねられると、うさぎは背後で大きな音がして、振り返らずに走ったとしか答えられなかった。
落ちた一つの果実
菩薩は震えるうさぎを背に乗せ、ちょうどその場所へと運んだ。そこには、押しつぶされたヤシの葉の上で、ベルの実が割れて転がっていた。それは音が告げたとおりのものであり、それ以上でも以下でもなかった。菩薩は集まった動物たちに、逃げ惑って危うく命を落としかけた災いの、単純な原因を示した。そのうえで、それぞれの草原へ帰らせた。そして、確かめられていない噂に導かれて、自分の目で真実と確認していない場所へ行くことは二度とないようにと諭した。
比丘たちが本当にたずねられていたこと
仏陀は、噂をその源までたどった獅子として自らを示したほかには、何者であったかを明かさなかった。物語の要点は、うさぎや他の動物がかつて誰であったかには左右されないからである。大切なのは誤りのかたちそのものであった。鎖のどの一環も個人的に確かめなかった結論に従って、森全体がほとんど自滅しかけたのである。これは比丘たちが苦行者たちのしているのを見てきたことそのものであり、その修行に益があると、注意深く調べる者なら誰も確かめられないような利益のために、自らを苦しめていたのである。パーリ仏典はこの物語をジャータカ第322番として伝えており、それを、響きが大きく恐ろしい音を、文字どおりのものであれ、ただ伝統として受け継がれてきたものであれ、確かめられた真実と取り違えてはならないという戒めとして語っている。
ご存知でしたか?
正典ジャータカ第322番。普遍的な民話の原型「ひよこチキン・リトル/天が落ちてくる」の有名な原初の仏教的出典である。
擬音語「ダッダバ」は、乾いた椰子の葉に落ちる大きなベール果実の重く鈍い音を再現している。
集団的ヒステリー、未確認のうわさ、そして恐慌に対する典型的な仏教経典上の警告として機能する。
実証的真理によって衆生を守る、恐れを知らぬ事実の調査者としての菩薩の至高の役割を強調している。
仏陀は勇敢な獅子王を自らであると明かしたが、経典本文は恐慌に陥った野うさぎの正体を示していない。
