五百人の比丘と、真夜中の教え
ジェータヴァナ精舎において、ブッダは、夜に三度、昼に三度、弟子たちを見守っておられると言われている。真夜中が近づくころ、五百人の比丘が欲望の思いに陥っていることを察知された。ブッダは彼らを集め、わずかな過ちでも、見過ごされれば大きな破滅へと育つのだと教えられた。そしてさらに、昔の時代の賢者たちが、彼らのものよりはるかに微妙な誘惑に打ち勝ち、ごくありふれた光景に注意深く目を向けたというだけで、辟支仏となった次第を語られた。
四人の王と、四つのありふれた光景
その過去の時代、四人の王が閻浮提(ジャンブ・ドゥヴィーパ。仏教の宇宙観における、インドの大陸)の四つの大国を治めていた。それぞれの王は、王位がもたらす十分な安楽のうちに暮らしていた。ダンタプラの王カランドゥは、実のなる一本のマンゴーの木が、ある朝のうちに家臣たちによって丸裸にされるのを見ていた。その隣では、まったく実をつけない木が、手つかずのまま静かにたたずんでいた。その一つの光景の中に、所有が破滅を招き、何も持たないことが安らぎをもたらすことを悟った彼は、その場で王位を捨てた。
ローラカの王ナッガジは、一つだけ身につけた腕輪は何の音も立てないが、二つ目が加わったとたん、ぶつかり合い、鳴り響くことに気づいた。そこに、孤独と、交わりがもたらす摩擦との違いのすべてを見て取った彼は、自らの王冠を捨てた。ミティラーの王ニミは、一羽の鷹が肉の切れ端をくわえて飛んでいるとき、ほかの鳥の群れ全体に襲われ、ついに獲物を落としたその瞬間に安らぎを得るのを見た。執着そのものが苦しみを招くのだと理解した彼は、五欲を捨てた。カンピッラの王ダンムカは、二頭の雄牛が一頭の雌牛をめぐって血まみれになるまで角で突き合い、ついに一頭が倒れて死にかけるのを見た。欲望が死に至る終わりまで運ばれていくのを見た彼もまた、王位に背を向けた。四人の王は、ただ真実の注意を一瞬向けたというだけで、それぞれが辟支仏となった。辟支仏とは、ひとり真理に目覚めるが、教えを説く仏とはならない者のことである。
一人の陶工の家庭
それと同じ時代に、菩薩はバーラーナシーで陶工として、妻のバッガヴィーと幼い息子と娘とともに暮らしていた。ろくろと窯を使って、正直な生計を立てていたのである。いま、ヒマラヤのナンダムーラ洞窟に住む四人の辟支仏が、托鉢のために連れ立って飛び降りてきたとき、立ち止まったのは、この陶工の家の戸口であった。彼と妻は喜んで彼らに食事を施した。そして彼が、それぞれがどのようにして出家へと導かれたのかを尋ねると、四人は順に、自らの目覚めの偈を唱えた。
待たずに去った妻
耳にしたことに心を動かされた陶工は、妻に、労働によって糧を得る在家の生活を続ける理由は、もはや自分には見出せないと、率直に告げた。妻は、夫と心をまったく同じくするかのように答えたが、その裏で密かに彼をあざむいた。彼女は水を汲みに行くだけだと言い、そのまま抜け出して、ちょうど食卓で食事をしたばかりの聖者たちのもとで出家した。夫は、その不在を後になってから知ることになった。
子どもたちを準備のないままにしなかった陶工
陶工は、すぐに妻を追うことはせず、息子と娘を自ら育てるためにとどまった。彼は、生のまま、火の通りが不十分なまま、焦げつかせたもの、塩が多すぎるもの、塩が足りないものと、思いつく限りのやり方でわざと米を炊き損ねた。そうして二人の子どもたちが、ちゃんと調理された食べ物に何が必要かを自ら学び、父親がいなくても自分たちで家を営めるようになるまで。彼は、子どもたちが自立できると確信して初めて、自分も出家を求めた。
同じ仕方で返された審判
しばらくして、今は自らも苦行者となった妻が彼のもとに現れ、子どもたちを捨てたと彼を責めた。陶工は率直に答えた。子どもたちがそのようなことを自ら理解できるようになるまで待ってから去ったのだと。一方で彼女は、水を汲みに行くという口実で抜け出したとき、子どもたちに対してそのような配慮を少しも示さなかったのだ、と。
ブッダによる同定
ブッダは、教えを結ぶにあたり、娘はウッパラヴァンナー、息子はラーフラ、かつて夫を欺いた妻はラーフラの実の母、陶工その人は過去世におけるブッダ自身であった、と明かされた。パーリ聖典のジャータカ第408番は、この語り方でこの物語を記録しており、五百人の比丘に示されたものである。出家を真剣に受け止めるとは、自分自身に対して正直であるだけでなく、その正直さが正しい時に実を結ぶよう、それに頼る人々に対して責任を負うことでもあるという証として。
ご存知でしたか?
クンバカーラ本生譚(#408)は、四人の王が身近な出来事から四者四様に無常を悟り、独覚(壁支仏)となった稀有な物語である。
独覚(辟支仏)とは、無仏の時代に自力で十二因縁を観じて悟りを開くが、教団を開かない孤独な聖者を指す。
二つの腕輪がぶつかり合い、一つの腕輪が沈黙するという比喩は、孤独な瞑想(犀の角のように歩め)を称える代表的な仏教説話である。
登場する四人の王(カランドゥ、ニミ、ナッガジ、ドゥムムカ)は、パーリ仏典のみならずジャイナ教聖典でも出家した聖王として言及される。
身分の低い陶工であった菩薩が出家する結末は、階級や職業に関わらず解脱への道が万人に開かれていることを示す。
